
近頃、「夢・希望」についての話題がめっきり減っているのではないかと感じます。子供達の教育現場でも「夢・希望」より何が出来る様に成るかに傾斜しているそうで、これは非常に窮屈で危険な状況だと推測します。
夢や希望とは言い換えれば、自分がコミットする価値の延長線上にあるもの。個人の生活を彩り支える、とても重要な事柄なはずです。
何故この様な窮屈な状況にあるのでしょうか。
「現実」に対するあきらめ、制約され決定され変化を手放し、どうせ何も変わらない
自己責任という空気が漂い、自己防衛の作法を身にまとい、夢や希望を心の奥底に上手に仕舞い込む
社会も大人も子供も「夢・希望」を語りにくい背景にはこんな心の移り変わりがあると思います。教育も既存の実践的な内容を色濃くせざるえをない。テンプレ人材は育つでしょうが、0→1で何かを生み出す事は可能でしょうか。失敗しても、何度でも立ち上がりチャレンジ出来る包括的な支援制度やそれを支える共同体が「幸福」の土台のはずです。
安定企業 資格の保有数 投資 皆と同じ選択
間違っていない正しい行為でしょう。しかし裏を返せば不安だからこそです。
少しずつ優先順位が崩れ、何が正しいのか、何があれば生きていけるのか、何が欠けると自分は自分でなくなるのか、自分を支えているものが何か、自分が自分である為の問題意識は確かにあったしかし、いつしか遠のき安心の為に目先の優位なるものに右往左往する。
私達の支えとなる安心たらしめるバックボーンとは何か?それは宗教や血縁にある「信頼」だろうと思います。社会には「信頼」感が内包されていなければならない。
社会への「信頼」感が薄れ、その心の表れとして語れない空気が蔓延する。
信頼は取り戻せるのか?
損得ベースの信頼関係ではない
もっと純粋でピュアなもの
ピュアとは自分がコミットする価値それ以外は様々な障害あれ、そもそも不可能であれ、割に合わない貧乏くじだと言われ様が、動じず自分の価値にアクセスし続ける心の強さ、忍耐力こそピュアと呼べるものだと思います。
そこから共感・共苦、歓びを同じくし苦しみを分ち共にする情動が沸き起これば、直接関わりのない出来事へも、その当事者へも、心を寄せる「信頼」になりうると思うのです。
夢や希望は「信頼」という安心の、その向こう側にあるものなのかもしれません。
ずいぶん遠くまで来てしまった
この荒れ果て行き過ぎた世界でもう一度 夢や希望を取り戻す
時代の後押しのない今 絶望の淵から始めるほかない
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